Heart&Hand

楽しく、焦らず、ありのままに。

王子と私の塊魂

自分らしくといいながら、その自分を好きになれないで落ち込む。
自分のやり方で進みたいのに誰かの言われた通りにしてしまう。
矛盾の塊。
何故そうなる。
それは自信がないからだ。

「自信とは自分を信じること。」
と、私の心の大事な領域に置かれている「真理」

自信には好き嫌いは関係ない。

が、
・自信をもつ=「信じられる自分」=「良い自分」=「好きな自分」
・自信がもてない=「信じられない自分」=「悪い自分」=「嫌いな自分」

と、なんの疑いもなく、何も考えず、無意識にラベルを貼る。

自信=信じられる=好き=良いもの
という図式。
でも本来好きだろうが嫌いだろうが、良かろうが悪かろうが自信をもつことはできる。
信じられそうな自分ではなくいろいろ諸々あるそういう自分が自分なのだと思い信じることなのだから。
自信=自身
人は矛盾の塊だ。


塊塊考えていたら思い出した。

塊魂」というゲームがある。
小さな王子が、王様の指令を受けフィールド内のなんでも巻き込んでどんどん塊を大きくしそれを宇宙に飛ばして星にする。

始めは小さな物しか巻き込めないが、塊が大きくなると巻き込める物のサイズも大きくなりさらに大きな塊になる。
巻き込んだものの内容にはそれほどこだわらないけれど、作った塊が大きいほど王様に褒められる。

たまに蟹座を作ろうとか牡牛座を作ろうとかで蟹や牛を巻き込めとかのお題も出るが、100%蟹とかではなく最低数を提示してくれる。
でも、作るなら純度の高い蟹座とか牡牛座を作りたいじゃないか。
と、100%牛をつい目指してしまう。
けど無理なのだ。大抵は別のものも巻き込んでしまう。
しかもそんな頑張りを笑うかのように、大量の蟹の塊とか牛の塊に対し王様は褒めてくれつつも「気持ち悪い。」と言ってくる。
お題を出した本人なのに。
ひどい。

そうやって褒められたり、貶されたりしながらも王子は黙々と転がし巻き込み、星を作り続ける。
宇宙から消えてしまった星々の輝きを取り戻すために。

転がし巻き込んで塊を大きくする。
ただそれだけの単純なそのゲームが大好きで夢中になって遊んだ。



最近強く思う。
心が関わることでは100%なんてあり得ない。
そもそも矛盾の塊なのだから。
それと人は変わるのだから。

好き嫌いは変わらないと思っていてもいつか反転するかもしれない。

で、気づいた。
そういう不確かなものに真理を紐付けしちゃってたよ、ワシ。



ゲーム内の王子と同じように、私の目の前にもいろんなものがある。
日々の出来事、様々な経験や人との関わり、いろんな想い。
その一つ一つの好きも嫌いも、出来不出来も、また特定の何かだけを大事にすることも私の「自信」の重要事項ではない。
「私自身」がここにいるということが一番大事なのだ。

障害物にぶつかり作った塊が壊れるように自信を失くしたり、作っている塊が何かに挟まり動かせないように身動きが取れなくなるような出来事があっても、王子と同じく褒められたり貶されたりしながらまた小さな物から転がしていればいつのまにか障害物だと思っていたものが巻き込めるようになることも、ジタバタともがいていたら何かの拍子に動けるようになることも、自身を失わなければできるのだと思った。

自信=自身という、ごちゃごちゃでも矛盾の塊でも代わりのない私の星をこれからも作っていく。
目の前にあるものを転がし巻き込み大きな塊にしていくかのように生きていくのだ。
宇宙に飛ばしたら誰にも見えない星かもしれんが、私が知っているからそれでいい。

課題だけど、課題じゃない。

早速だが落ち着かん。
見つけた課題もやはり語りたい。
…まったくねぇ。しょうがないねぇ。。


ところで、
「自分の思考は自分のもの。」である。

が、私は他者の心の動き方や物事の感じ方にまで「それ違う」と思う傾向がある。
どんな進み方や感じ方をするかなんて、まさに人それぞれの極みだろうとわかってるはずなのに。

ある人が自分自身と向き合った。
その時気づいたこと、その気づきまでの諸々の出来事、想い。
…そのプロセスの中にある感情にまで「それちゃうわ!」と怒っていた。
指摘されてハッキリと自覚した。
うわー支配的だ。と我ながら思う。

ただその怒りの中身は「私のことは私が決める」
なんだと、先生のシェアにより気づく。
その部分を少しでも他者に触られると(私自身がそう勝手に思い込むと)「やめいっ!」と過剰反応。

しかしである。
自分の思考は自分のものであるように、誰かの思考はその人のものなのだ。

例えば、人との関わり方を考える時、自分の思考がどんな目的でどう相手に向かうのか。とか、その思考が自分や相手を傷つけることになっていた。…などというエピソードに対し、反射的に「どう考えるかとか、傷つくかどうかは自分自身が決めるから!」てな捉え方をし、相手に「それ違う」と言う私は、自分と他者の思考を混合している矛盾星人だ。
私の心の中に進入されてる訳ではないのだよ。ホント落ち着け奥さん。
誰かのエピソードの中の「私」に見えた「何か」は実際の私ではない。
いつだって私のことは私が決めてるでしょうに。
そういう気づきは痛い。
「うわぁぁ。」となり、課題だ!反省だ!が私のパターン。
でも、別の見方をすればその一連の流れは私らしさの部分でもあるのだよね。
あることに対して違和感を覚えるアンテナを持っているという。

あと、私のそういうドタバタ思考を面白いと言ってくれる人たちがいる。
違いはきちんと伝えながらも、私らしさだとそのままに理解を示してくれる。

私は、トレーニングの会で集まる仲間たちをそして私自身を信頼しているから、思ったままに様々なことを出していける。
あの場でのやり取りがあるから普段の生活や仕事の中で、選択肢が増え助けられている。
嬉しいし、ありがたい。
とても貴重な場所であり存在なのだ。

スゴイのだ!

トレーニングの会へ行く。

シェアの時間は一人では気づかないことが、がっつり出てくる。それは大抵反省点だったり、課題だったり…と、捉えることが多い。
で、よし!課題だぜ。と、それを忘れんよう記録しておこうと文章化したり。
…しかしである。
自分に向けられた言葉がとても優しく愛がいっぱいのものだったとしても、課題だ反省だと、その部分ばかりに気を取られてしまうことで元々自分が持っている棘を忍び込ませ、もらった言葉をかなり俺流にして心に置いている。
ということに今回気づいた。
課題も反省も大いに結構。
でもそれと同じくらいの熱意を持って自分の良い部分に目を向けてみる。
そのために自分に向けられたプラスのストロークを録音するかのようにそのままに心にとどめることを意識して過ごしてみよう。

毎回仲間たちの姿に励まされ、本当にすごい人たちだよと思っているが、そのすごい人たちを見つけてそばにいる私もすごいのだー!
…と、心の中でニンマリと図に乗るキャンペーンをしばらく実施するのだ。



https://www.instagram.com/p/BSOKaZ-BFxA/
今日の3good 。待っていた荷物が届いた。可愛い器を見てニヤけた。良い香りとともに過ごした。

どれも必要ではあるのです。

ヒプノセラピー講座の日。

内心ネガティブ思考炸裂。

私は面倒くさがりだし、不真面目である。
勉強は嫌いだし、物覚えも悪い。
常に「できない〜無理〜」と叫んでいたい。
でも、できる人でいたいとか、かっこいい私でいたいなんていう見栄っ張りな部分がある。
言い訳したいけど言い訳したくない。
理想と現実のギャップにうなだれる。

理想をもつことは悪くない。
それが幸せにつながることならば。
それでも元々の性質とか向き不向きってものや、気力や体力ままならない時だってある。
けど私の中の厳しい私は変わらず思う。

  • 仕事は誠実に絶対に間違わないように。
  • 学びはきちんと真面目に完璧に。
  • 他者から受ける全てのもの、知識、時間、愛、金銭とか、それらには全力で誠実に。
  • 選んだこと、望んでやっていることに言い訳しない。言い訳は相手に失礼だ。

……ど正論。ど直球。
それはもう形式美のようになっていて、崩す事は罪みたいに感じている。
そこが問題。
まったくねぇ。。
心の中は汚部屋だと自称する人間が形式美を語る矛盾。
が、人というのはギャップや矛盾の塊だ。
ギャップや矛盾だらけの私を嫌いだ…とは、最近それほど思わない。というよりそう思うとすぐさま己にツッコミをいれるシステムが出来上がっている。

そもそも長い間私を守るために頑張ってきた思考ではある。
が、今なおその思考と共に生きようとする私の一部にこう呟く。
「諦めなされ。できないことはできないで今は良し。」

誰のために何のためにやっている?
自分のためなんだよね、結局は。
まずは自分が楽しみたいし、面白がりたいし、自分が好きでいたい。
それが結果的に誰かを同じように楽しませることになればいいと考えてるし、そんな私でいることがきっと一番心地よいのだ。

諦めの中に真実、というかまた違った面があり、それが安らぎや面白さを運んでくると知るこの頃。

…と、ここまで心の中のザワザワとの対話。
とてもメンドくさい奴である。


講座では、気持ちが通じるありがたさなど感じつつ長年の思い違いに気づけた。
自分を信じる姿勢も学ぶ。
それは仕事というか、人との関わり方に対しての大きなヒント。
ありがたい。

頑張ろう。
私のペースで。

お疲れにゃん

母の送迎を請け負った。
「請け負う」と言ってしまう時点でお察しなのだが、まぁいろいろ親子とはいえあるわけで。

しかし、今回は自分がそうしようと決めたことなのだ。
心穏やかに過ごせるよう祈りつつ家を出発した。

途中、ちびっ子の私がふくれっ面してるのを感じながらも用事を済ませ帰宅。

家に帰ってホッとしたからか、「も少し思いやりを持ち接すればいいのに。」
などと「普通」を愛する私の厳しい押し付けがムクムク登場しだし、疲労感増し増し状態となる。
全く、この「普通」ほど厄介なものはない。
なんだかちっともわからないが、今の状態ではないはずだとジワジワ圧をかけてくる。

今の状態が最善なんだよ。もう。。
と、ふて寝を決め込むと「俺様も寝る」と猫がスッと側に来てくれた。
癒しのかたまりさん、ありがとう。

私はできることをよくやった。
それだけでよいのだ。

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今日の3good 。よく頑張った。おやつ美味しい。ニャーコ先生が今日も可愛い。